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勉強とは?

はじめまして。 この春からISOROKUで講師を始めた道田と申します。

京都で大学院生をしていて、専攻は科学哲学です。科学哲学は文系と理系の両刀使いで哲学的 問題にアタックする魅力的な分野です。気になる人はぜひ調べてみて下さい。

大学生になった頃から塾や家庭教師のバイトを続けているので、塾講師歴はかれこれ6年目に なります。これまでは主に大学受験生向けの授業をしてきたので小中学生の指導には慣れない ところもありますが、経験を上手く生かせるように頑張っていきたいです。

せっかくなので勉強法についてなにか気の利いたことを書ければ、と初めは思っていたのですが やめにしました。というのも、小手指の方法論を箇条書きでまとめても、本質的にはあまり役に立 たないと思ったからです。率直に言って勉強は基本的に泥臭い作業の積み重ねなので、魔法の 杖のようなアドバイスはできません。ここでは具体的な勉強法アドバイスについて書くのはあえて 避け、それと比べてはるかに答えるのが難しい「そもそも勉強なんかしてなにか意味があるの?」 というひどく根本的な問いについて考えてみることにします。

この問題についてはすでに色んな人が色んなことを言っているでしょうが、僕なりの答えを示して おきたいと思います。塾講師という立場上「ごちゃごちゃ文句を言わずに机に向かえ!」と一蹴す ることもできます。しかし、それではやはりつまらないですし、なにより単純に答えを先送りにした だけで不誠実な感じがします。

先ほど述べた疑問は、もう少し正確に表現すれば、「勉強する理由に分りやすいモチベーション を与えてくれるような目的はあるのか?もしあるならそれはなにか?」という問いです。インスタン トな答えを与えるならば、学校生活や受験を上手くやり過ごすため、ということになるでしょう。た しかにこの答えはあまりに通り一遍ですが、ある意味で事柄の本質を見抜いているとも思います ぜひ。なぜなら、この答えは勉強の「道具的」あるいは「目的論的」側面を直観的によく捉えてい るからです。若干の飛躍があったので説明しましょう。

さしあたり勉強とは、知識つまり様々な know how を蓄積することだと言い換えられます。そして 知識は多くの場合、なにか特定の問題を解決したり適切な判断を下したりするという「目的」を果 たすために先人が作ってきた「道具」です(道具が目的をもって製作されているのと同じように、知 識にも目的があります)。したがって、勉強の目的は道具、それもそこそこ複雑な内部機構をもっ た道具の適切な使い方を習得することだと言えるでしょう。例えば、自転車は人を軽やかに運ぶ ために作られた道具、法律は人を公正に裁くために構築された体系的知識だと言えるでしょう。 複雑な機構というのは、部品のシステマティックな構成を必要とすることを意味しています。化学 反応について知りたいなら、まずは元素記号くらいは覚えないことには先に進めないという点で、 化学的知識は構成的です。

もちろん、いくら精巧にできた道具といえども受験のような差し迫った目標さえ達成すれば用済み の知識だ、という二ヒルな見方も取れるでしょう。なるべくそうならないように、ここでは一つ頑張っ て説得してみたいと思います。

さて勉強の目的は上で述べた通りですが、勉強そのものは機械整備作業によく似ています。例 えば、あなたが自転車の内部機構を詳細に知らなくても一通り練習しさえすれば、それを乗りこ なすのは造作もないことです。大方の人にとって、自転車は動かせさえすればそれで十分な道具 であって、細かいことは知らなくても日常生活はなんとかなってしまうのです。さて、それでは自転

車が壊れてしまったときにどうするでしょうか?僕は自転車の内部機構について知らないので、 整備士さんに修理してもらうしかありません。それではたとえ話を続けて、自転車が故障してし まったときに悪いのは誰でしょうか?ガサツな運転をしていた僕か、あるいは、手抜きをした製造 元に責任が帰せられるのが筋でしょう。それでは、同じ道具でも自転車と知識ではなにが違うで しょうか?

第一に、もし知識が故障していたとしても、親切な他人が故障の責任をとってくれたりすることは ないことです。なぜなら明らかに、あなた自身は道具でも製作物でもないからです。知識が歪ん でいる時に暴走するのは他ならぬあなたの判断・言動です。もしあなたが不良品の自転車で怪 我をしたら同情してもらえるでしょう。しかし知識はすでにあなたの一部とみなされますから、知識 の故障に起因する失敗は結局自分自身を損なうことになるのです。

深刻げなことを言いましたが、そういう事態を防ぐために整備工の仕事があります。そして自転車 と知識の第二の大きな違いはこの点に関わっています。というのは、基本的に知識の場合はそ の所有者と整備士が同じ身体に同居していて、道具のメンテナンスは自前でどうにかするしかな いということです。よい道具もずさんに管理していれば錆びついてしまいます。

ところで、私たちが道具のユーザー兼整備士であるというのは正しいとしても、ではなぜ他人にメ ンテナンスを外注してはいけないのか、という批判も飛んできそうですので、これについても応答 しておきましょう。この批判はおそらく、ちょうど自転車をなんとなしに漕げるのと同じように、日常 生活においてはなんの不便も生じない、という事実に起因するものでしょう。

たしかに知識のメンテナンスを親や先生などの他人に任せることもできますが、そのままでは結 局のところ道具の仕組みは分からず終いです。道具をなんとなく使用することの決定的な問題点 は、自力で手入れしていない知識は不測の事態に対して受け売りの解決策を反復することしか できない、ということです。例えば、英語のスラングは知っているけど内容のある英会話はできな いような状況を想像してください。これでは知識本来の目的、すなわち問題解決や適切な判断を することは果たせないでしょう。簡単に言えば、定期的な自己整備をさぼった知識は応用が効か ないのです。

ここまで読んで頂いた皆さん、ありがとうございます。ごたごたと長文を連ねましたが、少しでもモ チベーションが湧けば幸いです。まるで納得出来なかったという人は、僕がどこで説得をしくじっ たのか考えてみて下さい。

最後に一言。道具にはその目的を果たす上で性能のよしあしがあるのと同じように、知識にも有 用性や複雑性の序列がつけられます。例に挙げた自転車は比較的単純な道具ですから、それ に乗って進める距離には限界があります。みなさんも受験さえ乗り切ればその場で乗り捨てても 構わない自転車スケールの知識に満足せず、帆船やロケットのような道具=知識をぜひ自分で 操縦して、使いこなせるようにチャレンジしてみて下さい。自分の一部となったそれらはきっと、想 像以上にあなたを遠くまで運んでくれます。辿りついた先では、自分で道具を発明してしまうこと も、出来てしまうかもしれません。